和44年07月04日 朝の御理解



 御理解 第87節
 「腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。」

 お道の信心取分けそのう金光様というのは、お産の神様だと言われる位に、懐妊とかね又は出産とかいった様な、人間の女の心得心掛けといった様なものを色々説いてございます。特にこのう大阪当たりでは商売の神様といい、四国当たりでは今申しますようにお産の神様だと言われる位、この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰る。それもやはりお産の事からの御理解らしいですね。喜びと申します。
 ですから金光様のご信心を頂いておって、もうお産の難儀といった様なものはなくて、みんなそれがこのう有り難いものとしておかげを受けておりますですね。ここでもやはり懐妊のおかげを頂いたら、そこにもう神様の氏子が宿られたと、そういうやはりあのう心掛けというかねそういう思いというか、それがおかげを頂くんでしょうね。神様の氏子が私の胎内に宿られた、そういう思いを神様がお喜び下さるね。やはりそういう思い方がおかげを頂くというよりも、そういう思い方が本当だからなんですよ。
 いわゆる人間氏子の事をね神のいわゆる子、神の氏子とこう言うて下さる。確かに神の氏子が宿ったんです。そういう思い方そういうそれが本当なんだからおかげを受けるんですね。信心させて頂いていよいよ本当な事が分かって、その本当な事が身につていくそ、れを信心が進んでいくというし、おかげもまた進んでいくに従って、いわば進んだおかげがそれに伴うていかなければいけない。ところが信心は分かっていっても、そのうおかげを受けない自分のものになっていかない。
 大連の教会に、松山という大変高徳な先生がおられました。そこの総代さんで一家を挙げて信心をする。熱心な。ところがする事なす事が良くない。それである御本部参拝の時に松山先生が、三代金光様のお取次ぎを願われて、私の方の総代で○○という氏子が居りますが、本当に珍しい信心をします。一家を挙げて一生懸命信心をしますが、どうしてもそのう仕事の上におかげを頂ききりません。
 何処にどう言う風に分からせて頂いたらおかげを受けましょうか、という意味の事をお取り次ぎを願われると。金光様が仰っておられますのにね「こうすればおかげになると分かりながら、こうせんからおかげになりません」と仰ったそうです。でも長年のいわば一家を挙げての信心なんです。だから信心も段々巧者になって来るし、信心の意味合いというかねそれが段々分かって来て、俺んところの家はここをいちょ改まりゃおかげ頂くばってんと、こう分かっておりながらこうしませんからおかげになりませんと。
 もうそれこそ鶴の一声ですね。その事を伝えられてそれこそもう平身低頭、そうどころじゃございませんと言うて、一家がその事に改まる事に務めたら、一年もせずして大変繁盛するお店になったというて、いうお話しが残っております。何故かってそれが本当な事なんですから、ただ一家を信心信心は分かっておる、唯そのう何とはなしのおかげというのではなくて、信心が分かっていけば分かっていく程それが、自分のものに血に肉になっていかなければならない。
 腹は借り物というがね、借り物ではない万代の宝じゃと。それはね、神、神の氏子が宿る場なんです宮のようなものなんです。また事実懐妊のおかげを頂いたら、神の氏子が只今宿られたという頂き方が、それが本当な事なんです。そういう思い方をすればおかげを頂くといったのでなしにそれが本当なんだ。だから本当な事を思わせてもらい、本当な事として大事にしていくから、いわば安産のおかげを頂くということになる訳なんですね。だから万代の宝じゃとこう仰っておられる。
 私は本当な事を段々身に付けていくということが、御神徳を頂く神様の御信用を受けるという事であるならですね。もう信心こそ私はね信心によって例えば頂くもとこそ、これは万代の宝だと思います。これは子孫にも残るとこうおっしゃるが、これは子孫に残らんでも、自分が持っていけれるというのはこれだけなんですから。ですからこれはもういついつの世までも持っていかれる、まぁでも自分のものなんですからね御神徳とは。後に残る残らんは別としてそうなんです。
 なるほど万代までの宝じゃと、その万代までの宝という程しのものを頂くのでございますから、ひとつ私共がここんところを本気で、本当な事を分からせてもろうて、本当なことを自分のものに自分の身につけていく、おかげを頂きたいと思います。例えば様々な私共の上に起きて来る難儀。それはやはり前々のめぐりで難を受けておると仰る様に、めぐりであるということも事実。けれどもそれをもっともっと追求していきよったら、そのめぐりというのは実はないのであって、只あるのは神様の思い。
 いわば神愛だけだということになって来るですね。いわば本当の本当を追求するとそういうことになる。例えば私がめぐりのために様々な難儀をしたとこう致します。あれだけ信心してござって、どうしてあげん難儀が続くじゃろかと、いうようにいわば難儀をさせてもらった様々な成り行きで。大坪の家はめぐりが深いからと、やはりその事を思わん訳にはいけんほどに難儀が続いておる。
 おかげを頂いていわゆるやれ痛やと思う心、直ぐにみかげの始めと仰るから、どんな難儀な場合でもそれを例えばめぐりのお取り払いだとして、それを有り難く受ける事のために精進させてもらう。深い深い神様の御都合御神意がある事であろうとして、それを頂き抜かせて頂きよりましたら、段々私が助かって来るに従って、人が助かって来る様になった。そして人が助かるようになって来てこの様におかげを受けてから、振り返ってみたら、例えばこの二十年間なら、二十年間の事を振り返ってみますとですたい。
 こういうおかげを頂かせようとなさる、神様の御神愛だったということが分かって来た。ですからめぐりのお取り払い、なるほど前々の教祖が嘘を仰るはずはないですから、前々のめぐりで難を受けおると仰る。前々のめぐりで難を受けおるという事も事実なら、だからその時代はめぐりのお取り払いとして、それを有り難く頂く事は間違いがなかった。本当な事であった。けれども本当のいわば本当というのは、力を与えたいお徳を頂かせたい、本当のおかげを頂かせたい。
 いわば万代までのもの宝とも言われ、思われるようなおかげを授けたいばっかりであったということが分かるね。私は万代の宝というのは、そのようにしてそのう宝物を授けられるというか、宝物にして行く事だと思います。神の氏子が我が胎内にいると思うてとこう仰る様に、そこに難儀というものをそこに感じたら、今こそ神の氏子というかね、宝の元が心に私の家に、私の心に宿って下さったんだと頂くのが、一番本当だということになるんです。その難儀を取り除こう取り除こうとする。
 それはちょうど妊娠のおかげを頂いたのをです、もう次から次に矢継ぎ早じゃから、もう今度はいっちょ流そうと、というのと同じ事なんです。十月十日という間長いいわば苦しい思いをせなならんから、あんまり子供がぼろぼろ出来るから、というような事で私はそれを、流産に流してしまう様なものだと私は思う。神の氏子が我が胎内にいると思うて、いわゆる万代までの宝の元になる様なものが、今私の家の上に私の家に宿って下さったんだとして、それを大切にせよとこう仰るのですからそれを大切にする。
 それは例えば私が申しまして、私の例で申しましたもです、成る程めぐりのお取り払い、大坪の家にゃめぐりが深いぐりが深いとこう思うて、やれ痛や今みかげをという心。こうしてめぐりのお取り払いえを下さるんだとして、頂いていきおりましたらそれが段々、本当は神様のお心の現れであり、慈悲の心の現れであり神愛の表現であったということね。そこんところは例えば教祖様の場合でもそれが言えますね。
 金神信仰から始められた教祖の御信心がですね、こうして次々難儀な事が起こって来るのは、金神様への御無礼があってからの事であるとして、金神様に平に平にお詫びをなさっておられます。人間氏子の事であい分かりませず、どこにお粗末や御無礼があるか分かりませんとお詫びをなさる。それが一回二回じゃない。様々な問題様々な難儀な事柄をです、そのようにしてやっぱ金神様のお気障りとして、それをお詫びし抜かれて全てをですね。どうしてこの様な事がといった様な事になっていないところにです。
 ほとほといわゆる神様の方が感心なさってね、段々金神様からいわば天地金乃神様と、過程がずっとございますが、天地金乃神様としてこう向きをお変えになってみえられた。そこにはもうそれこそ慈愛溢れるばかりの、氏子可愛いの一念に燃えておられる神様であるということが分かった。今日私が言おうとしておるところはそこなんです。だからその本当な事をですね、本当な事として分かるからおかげになるのです。いやおかげというよりも、本当な事を本当な事として分かるからそれがお徳になるのです。
 いわゆる万代までの宝ということになるのです。はい実に実際はこう簡単に説いておりますけれども、実際問題としては大変難しい事です。そこでです私共が一生懸命のまぁ言うなら命を懸けての信心であり修行である。命を懸けてというと大変まぁ厳しく聞こえますけれども、一生懸命の信心というのは、私は命を懸けたんだとこう思いますよ。例えば朝の御祈念にお参りして、昼の信行期間の間は昼もお参りされて、そしてまた月次祭には出て来る。とてもとてもこれは命懸けでなきゃ出来るこつじゃないです。
 自分の都合ども言いよって出来るこつじゃないです。これはいわば一生懸命の信心です。ところがですね、その一生懸命の信心でもさせて頂いておらなければです、その難儀を神愛とは頂けんのです。本当な事が本当ととして実感しては頂かれんのですね。それを私はあのういつも私と久保山先生の話しで、「本当に大坪さんこの難儀苦しい中にあられながら、本当にそげん有り難かですか。」ってものが生まれてきよったんです。それを私の一生懸命の信心から。一生懸命の信心しよる。
 そげんな不合理な事あるもんですか、今参って又参るね。けれどもですその時分にその信心は、私にはひとつも問題じゃなかったんです。その難儀問題は苦しい事であったけれども、信心はひとつも苦しい事じゃなっかったですよ。そしてこういう難儀のおかげでこれだけの信心が出来ると思うから、その事が有り難とうて有り難とうて堪らん。それが何かにこう端々に現れて来るお話の中に。それを久保山先生は「本当にやっぱそげん有り難かですか。」といわれる様なものを、私は本当に自分で感じておりましたんです。
 ですから有り難くなれないなら、その事その難儀なら難儀を有り難いなぁ、神様がこうしてまでということが分かる。心で分かっておっても心に例えばなら、実感として有り難いと湧かんなら、まぁだ修行不足と思うて、私は本気でもっともっと修行しなければいけないと思うんですよ。それに主はなんぞやとね、今頃朝の御祈念がこう少し減った感じ、どうせ1時の御祈念にお詣りせんならん、そんならもう朝起きもせんで参ったがよか。たった三十分間でさぁっと帰られるから。
 まるきり便利の為に昼の信行期間に参ってきよるようなこっちゃ、そんな人が沢山あるでしょうが。朝参りしよった人が朝参り止めて、信行期間にだけ顔を連ねる。判んこいっちょ押しときゃそれでよかごと。それじゃひとっつも修行にもならなければ、却ってそれは本当な事じゃない事が。本当な事を例えば朝参りを本当な事とするならばです、或いはその本当な信心ね。御道の信心は朝参りからと言われておる。いわゆるその本当な信心をいよいよ本当たらしめるために。
 信心んの有り難さが本当に分かる事の為に、信行期間というのはあるのですよ。そこんにきがね分からずして、今日この万代の宝じゃという程しの、宝にしていく事のおかげはなんやらかんやら、どうやらこうやら受けたに致しましてもです、万代の宝というところまではおぼつかないと思うんですよね。だから例えばそういう言い方は、本当に確かに不合理なんです。そげん参らにゃんか、度々そげんお供えせなならんか、けれどもねそうしなければおられん。
 昨日在る方がここでお届けをされるのに、娘さんもやはり縁についとりますが、やっぱり熱心に参って来る。息子さんも嫁さんを貰っておる。その息子さんの嫁さんが、そのういうなら自分はそのう、自分の主人の義姉さんに当たる嫁行って人にそのう話した。とても家のお義父さんとお義母さんな、毎日毎日二人合楽へあぁして参りなさるが、どうしてあげんいくつでんお初穂せんならんじゃろか。私どんはあれを考えよっただけでん、とてもほんなこて先々どげんなりなさるんじゃろかちゅうちから。
 私だけなっとちっとずつ貯めようかにゃおられんち。姉さんにそうして話したっち。それけど姉さんも毎日参っては来よるけれども、ほんなこつじゃのうやあげぇん御供えせんでんええと思うばってん、とても私どんあげんにゃ出来んと姉さんも言うた。それけどお母さんあんたがあんまり御供えするけん、あんたげんいわば嫁御ですね、弟の嫁は信心お参りせんとばのち。それけんちっとばっかりそのう、まぁそげん何人分でん御供えせんな、した方がよかのちゅうてその娘が忠告してくれたとこう言うのである。
 そこでね娘の名前を言うて、○○さんって、私達が合楽に御神縁を頂いたのはどういう様な事からじゃったか、あん時におかげを頂いてその後の事はどういうことになって来とったのか、とてもほんなこつこげなこつっちゃ足るこっちゃこつ段じゃなかよて。今言うとるそんならその息子たち夫婦の事でもです、とてもあぁいうようなおかげ頂けるはずの人じゃなかったんだと。ともうそれこそもう本当な事を懇々として話したんですね。そしたらほんとお母さんあんたがそげん言うなら。
 やっぱそらあんたが言うこつがそりゃ、やっぱあんたがそげんいうこつがほんなこつ言うて、娘も言うてくれましたとこう言う訳なんです。本当な事なんですそれの方が。だからそこは例えばなら息子の嫁のには凝りを積ませておるからね。そりゃ息子の嫁がそげん言うごたるならば、んなら金光様の御信心な暇もいらなきゃ、時間もいらんばのち、もうお金でんなんでんもう有る時お供えすりゃあよかけんでといやぁ。そんなら私も付いて来るというて付いて来るちゅうて付いて来るかも知れん。
 けれどもその程度信心しか出来んのなら、おかげをいわゆる万代まで万代の宝じゃなかものそげなこつじゃ。私共が目指すのは、どこ迄もこの万代の宝じゃと仰る宝なんです。私共生死を通して真実幸せにならせて頂く事の為の、元を私共は頂く為に信心をさせて頂いておる。こうして一応朝参りでも出来る方達はそこがやっぱり願いとして、そこを祈っていかなければならない。とてもそれじゃ信行期間に、昼お参りしよるけん、もう朝参りは御無礼しようなんてことは言われん。
 けれどもそういう程度の人がやっぱりあるんですけれどね。例えばこうこの八十七節から、まぁいろいろにこうあのう思わせてもらい頂かせてもらい、確かに懐妊の時にね神の氏子が体内に宿ったと、とそれを神の氏子と信じてそれを大事にすることによって、良いものが生まれて来るようにですね。私共の難儀の正体というのはめぐりの世界、前々のめぐりで難を受けておるのですけれども、ですからそこに気づかせてもらい、めぐりの取り払いをして頂く事が有り難いということに気づかせてもらい。
 それが有り難いと分かるところ迄修行させてもろうていきよったら、そのめぐりというのは本当は神愛の現われであったと、いよいよ本当な事が分かって来た。ですからそこに難儀なら難儀というものを、体内に、心に受け止めたら今神の氏子が、今ね神の氏子がいわば宝の元が、今私の心に私の家に宿ったと分からせてもろうて、その事を大事にそう思うて大切にせよと仰る。大切にしていくことそのこと大切にしていくことを願いとしなければならんのに、その大切なものを外へやろうと、流そうと。
 この難儀から早く逃れようというような心では、本当な事ではないからおかげにならんのだということです。それを真っ正面から合掌して受けて、合掌して受けられるところ迄、やっとかっと受けるのじゃない、合掌して受けるというのは、有り難うございますと言うて受けるということ、それが本当なこと。その本当な事は本当な事と頂かせてもらう事は非常に難しい。けれどもその本当な事を本当な事として、お礼申し上げる事のために、信心修行はあるのだ。
 その信心修行を一生懸命させて頂いておる。例えば朝参りね。金光様の御信心には信心振りと言うものは、まず朝参りからという本当な事をさせて頂いて、冬に夏に特別の信行期間に様々な趣向を凝らしての、その信行があるけれども、それは本当の信心を本当の信心足らしめるためのものの修行であって、それが例えば昼の1時の御祈念が本当な信心と思うたら大間違いなんだ。
 あれは本当な信心を分かることの為のいわば伴奏のようなもの。それに昼一遍参りゃよかというような事じゃいけん事が分かる。そういうといかにも非合理のようであるけれども、それは非合理ではなく超合理的なものであるから、私はいわば超がつくようなというかね、いわゆる宝物と思われる程しの有り難いものが頂けるのでありす。「腹は借り物と言うが、借り物ではない。万代の宝じゃと。
 懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。」ここはいると思うてとおっしゃる。神の氏子がいると思うてという、その思うてくらいじゃなくてから、それが本当なんだ思わんでもそれが本当なんだ。神の氏子である事が本当なんだ。だから神の氏子が宿ったと思うて、ただ思い替えといったようなもんじゃないの、本当は神の氏子なんだ。本当はその難儀は神愛なんだ。神愛のかたまりなんだと頂けるところまで、お互い修行させて頂きたいと思うですね。
   どうぞ。